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落語散策

「青い目の落語家」初代快楽亭ブラック(読む時間:凡そ3分)

読む時間:およそ3分

今月から「落語散策」というコラムをはじめて、月一回のペースで落語について色々語りたいと思います。フランス語を勉強する方はサイトのフランス語ページにも(ほぼ)同じ内容を掲載しますので、どうぞご利用ください。
近年、日本の文化を海外に伝えようとする「外国人落語家・落語パフォーマー」がチョコチョコ出ていますが、このブログの第一弾テーマとして「海外」と「落語」というキーワードから考えると、皆の大・大・大先輩の話をしなければならないと思いました。

べらんめえ口調の「青い目の落語家」、ヘンリー・ジェームス・ブラックこと初代快楽亭ブラックです。
オーストラリア生まれ(1858年12月22日)のイギリス人で、7歳の時に横浜に住み始めたブラックは日本が西洋の技術や文化を受け入れ吸収した明治時代に最高の外人タレントでした。落語家だけではなく、講談師や歌舞伎俳優としても活動されて多重多彩の芸人でした。

1886年に明治の名人、三遊亭圓朝の所属する三遊派に入り、西洋の小説やイギリスの古典文学を翻訳し、それをもとにした新作落語として寄席で披露して、日本の庶民たちに大喜びで迎えられました。今になって、上方落語の定番であるThe Zoo「動物園」(2代目桂文之助が工夫されたという)またはDrinking beer for a stake「ためし酒」(7代目三笑亭可楽が工夫されたという)などの滑稽噺は元々ブラックが翻案して創作されたようです。また、「義理や人情ってやつぁ、どこの国でもいっしょです」と語っていた本人は19世紀の英国産業革命も強くディスっていました。ディケンズの「オリバー・ツイスト」やメアリー・ブラッドンの「Flower and Weed」の翻案では、テキスタイル業界で子供の労働や女性の搾取を厳しく指摘していました。

そして、西洋からきた記述「速記」のおかげで出版された初の落語速記本(圓朝の『怪談牡丹燈籠』)にも関わっていたのも、日本で落語家の声をレコードの吹き込みを初めて行ったのもブラックでした。明治の文明開化に重要な立場を果たした一人でした。
ところが、20世紀に入り、たった10年で150件の寄席が閉館となり、落語を聞きに行くお客様が減る一方で、ブラックは芸人として人気もなくなります。1908年には砒素を呑んで自殺未遂。仕事が減って、英語の教師や弁士としてなんとなく生き残ろうとしています。
関東大震災2週間後、1923年9月23日。
明治の日本の庶民に愛されたブラックがその青い目を永遠に閉じます。今、横浜の外国人墓地に眠っています。

Le premier et unique rakugoka étranger de Meiji
おすすめの本
「快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント」

1件のフィードバック

  1. 桂三輝(桂三枝の弟子 桂サンシャイン)の顔によく似ている。ことによると サンシャインは快楽亭の生まれ変わりじゃないかと思った。ちなみにブラックの名前はよく覚えていたが、うろ覚えでブラック亭ユーモアだったけかななどと思っていたが、これを読んで快楽亭だったと思い出した。

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