Cyril COPPINI

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落語散策

日本語の勉強から落語の道へ

読む時間:およそ4分

高校時代(15歳)に故郷のニースで日本語の勉強をはじめました。
当時、地方都市の高校で日本語を勉強することは非常に珍しいことでしたが、ちょっと面白そうという単純な気持ちではじめました。
今のフランス人若者同士で、日本語を勉強するきっかけになるのは漫画が日本語で読みたい、アニメが日本語でみたい、という声がありますが、アルファベット教育を受け、育てられた僕には仮名と漢字は非常に魅力的でした。やはり、「アート」に見えたでしょう。
一方、今になってどうして日本語を勉強しはじめたかと考えると、他の人がやることと全く違うことをするのは好きなタイプだろうなと思います。南仏のニースは、将来の仕事として観光事業・医療(年配の方多く住んでいる)などのチョイスは僕には合わなかったでしょう。珍しいことである日本語の勉強ができるなんて、チャンスだと感じました。

実際に勉強にはまりました。
フランスの高校は3年続きますが、ゆっくりのペースで(週3時間)勉強。ひらがな・カタカナを覚えるまでは一年間。高校3年生の時はどんどんはまっていって、他の授業中には漢字の復習もしていました。日本語の先生は「高校を卒業したらパリの日本語専門大学に行った方がいいのでは」と。
南の人間だから、パリなんて行きたくないし、住みたくない(日本でいうと、大阪の人は東京に行きたくない感じ)。でも、日本語を真剣に勉強するのでれば、そのパリの大学にいくしかありません。18歳に実家を出て、パリに拠点を移すことにしました。

大学4年生のときは指導教師が「あなたは日本文部省の奨学金をもらいました。来年は1年間の留学ができます」と。おっ!日本の大学に行ける!嬉しい。けど、不安。
というのは、パリの大学の勉強は非常に厳しくて、今は全然使わない「漢文」とかの勉強をするほどレベルが高い学校です。
勉強はフランスで厳しいなら、日本の大学ではどれぐらい厳しいでしょう。

1995年10月に長野県松本市信州大学人文学部にやってきました。松本について間も無く大学のキャンパスを案内してもらいました。
すると、教室ではコンサートのリハをする人?
外では屋台の準備をする人?
みんな、楽しそうに過ごしている。
そう!フランスにはない「大学祭」の時期でした。ほっとしましたね。
日本の大学、全然厳しくないやん!(笑)

奨学金も結局、居酒屋とカラオケでつかってしまい、今だに日本の文部省には申し訳ない気持ちがいっぱいです(笑)。が、1年間の留学(遊び)で日本語が喋るようになりました。

もともと信州大学に留学した理由は修士号の論文の研究でした。
論文のテーマは「二葉亭四迷の言文一致運動」ですが、1995年にはインタネットもないし、パリの大学の図書室には二葉亭四迷についての日本語資料が数少ないし、フランス語の資料はもちろんありません。

実は、二葉亭四迷の研究をしながら、「落語」と出会いました。
話を短くすると、四迷が書いた資料には自分が三遊亭圓朝の速記本「怪談牡丹灯篭」に大変影響されたと。
そこから疑問がはじまりました。落語ってなんでしょう。もともとのテーマの言文一致を忘れるほど、落語ってなんだろうと気になって気になってたまらない状況になりました。

留学時代には同じく広島大学で留学していた同級生がいて、「今年は年末年始を一緒に過ごそう」と約束していましたので、広島に行きました。

1996年のお正月。
同級生のおうちでゴロゴロしていたら、TVに面白そうな番組がはじまります。
陽気なメロディーにカラフルな着物を着るおっちゃんたちが登場。そして、そのおっちゃんたちが面白いことを言うと、座布団をもらいます。くだらんことを言うと、座布団とられます。
そう。「お正月だよ!笑点」でした。

同級生は、何回も日本に滞在することがあって、当時の僕より日本のことが詳しい人ですので、尋ねてみました。
「なに、これ?」
「あ、これは日本の落語だよ」と。
えー?!これ、落語?!
三遊亭圓朝の「怪談牡丹灯篭」よりはよっぽど楽しそうだな(笑)。僕が想像していたイメージと全然違います。その時、落語をやると決意しました。
が、同時に苦労がはじまりました。

To be continued

Une des nombreuses couvertures de « L’histoire du fantôme à la lanterne en forme de pivoine » 三遊亭圓朝の「怪談牡丹灯篭」

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