(落語の始まり「岩戸隠れ」の神話の続き)
落語の誕生の短いバージョンもこちらにあります
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ここからは落語の歴史、落語がどのようにして出来たのか、その成り立ちについてお話していきたいと思います。
落語の歴史はまず、戦国時代から江戸時代初期にかけて、各藩の大名、お殿様に仕えた「御伽衆(おとぎしゅう)」という人たちから始まります。「御伽衆」というのは、いわば大名の側近で、今の言葉で言うと、アドバイザーとかコンサルタントとかいう言葉が当てはまるかもしれません。御伽衆はそれぞれの分野のエキスパート、専門家で構成されていました。
例えば、お殿さまが、「近々戦があるやもしれぬから戦の戦略の話が聞きたい」と言えば戦の専門家が戦略についての話をする、「戦に勝つには仏様の力が必要だが、仏教のことはよおわからん」と言えば僧侶が仏教の話をする、「面白い話をせい」と言えば面白い話が得意な人が面白い話をする。
お殿様の中でも、豊臣秀吉は800人もの御伽衆を抱えていたそうです。
その秀吉に笑い話をして気に入られたという人の中に安楽庵策伝というお坊さんがいました。
彼は、難しい話が多くて退屈なお説教を、親しみやすく、わかりやすくするために、笑い話を取り入れました。そして、彼は「醒酔笑(せいすいしょう)」という笑い話をまとめた本を出したのですが、これがのちの落語に大きな影響を与えたことから、落語の祖とも呼ばれます。今でも、10月の第一日曜日には安楽庵が所属していた京都の誓願寺では安楽庵オマージュ落語会が開催されます。
その後、江戸時代初期に、江戸、京都、大阪の3つの町にほぼ時を同じくして3人の落語家が登場します。
まず、京に露の五郎兵衛という人が登場します。四条河原町などの大きな道で笑い話を始めます。大きな道のことを当時は大道といったのですが、今でいうと商店街のような感じでしょうか。
江戸時代の大道には色んな芸人やいまでいうパフォーマーなど、道を行き交う人を楽しませる人たちが大勢いました。だから今でも色んな芸を披露する人たちのことを大道芸人というのです。
露の五郎兵衛は大きな道の道端で笑い話をしていたのですが、これを辻噺といいました。
続いて江戸に鹿野武左衛門という人が登場します。
江戸でも京都と同じように大きな道の道端で笑い話(辻噺)をする人たちがいたのですが、
その中で特に面白い人たちが大名や商人たちにスカウトされて彼らのお屋敷の座敷に呼ばれるようになります。これが今の落語の寄席の原形です。この座敷で噺をすることを座敷噺と言いました。
そしてその噺家の中でも最も売れたのがこの鹿野武左衛門だったのですが、彼は江戸の人ではなく、大阪出身の人だったそうです。大阪人が面白いのは、昔からですな。
そして、その大阪には、米沢彦八という人物が登場します。彼は生國玉神社(いくくにたまじんじゃ)という神社の境内で辻噺を行ないます。
この神社は2000年以上も昔からある日本でも有数の古い神社なのですが、江戸時代のこの神社の境内には、京都の大道と同じようにたくさんの大道芸人やパフォーマーが集まって芸を披露していて、正月や縁日でもないのに毎日賑わっていたそうです。
その中でこの米沢彦八という人が笑い話を始め、軽口噺と呼ばれます。
今も生國玉神社では毎年9月には「彦八祭り」というお祭りが行われています。
ちなみに落語の代名詞ともいえる「寿限無」というこの話の元になる話を作ったのもこの彦八だそうです。こちらでは、日本語・仏語「同時通訳ジュゲム」を楽しんでいただきます(2016年ジャパン・トゥール・フェスティバルにて収録)。
落語は、東京は座敷、京都は大道、大阪は神社とそれぞれ違った場所から発展していきました。
鹿野から始まった東京の座敷噺はその後、現在の江戸落語になります。
一方で、露の五郎兵衛から始まった辻噺は京落語、彦八の軽口噺は大阪落語と呼ばれるようになります。ただ、京都の京落語というのが昭和初期になくなってしまい、大阪落語と一緒になって上方落語と呼ばれるようになります。
このようにしてそれぞれ発展していった落語ですが、江戸落語と上方落語では、成り立ちが違うことから、異なる点がいくつかあります。
TO BE CONTINUED (上方落語と江戸落語)